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ジャパニーズ・ロックの範囲には様々な定義が考えられるが、ここではポップ・ミュージックなども含めた広い意味でのロックを指すこととする。
1990年代に、大手音楽制作会社ビーイングを中心に営利目的で「J-ROCK」という名称を使用していたが、「J-POP」とは異なり、主に日本国内では浸透しなかった。海外では浸透しているが、ビーイング系やそれに準ずるアーティストを中心に呼ばれているため、本来の「日本のロックミュージック」という意味合いとは、大いに異なる。なお同社の系列会社にジェイロックマガジン社という出版社がある。TSUTAYAなどのCDレンタル業界では、J-ROCKというカテゴライズが使われることもある。また、ヴィジュアル系とは分けて考えられている。
日本でのパンク・ロックの歴史は、1970年代後半、イギリスのストラングラーズやセックス・ピストルズの 成功を始めとして起こったパンクムーヴメントに影響されて始まった部分が大きいが、それ以前にも音楽性はパンク・ロックとは呼べないものの、攻撃的なメッ セージ性を含んだ歌詞やパフォーマンスなどで後に日本におけるパンク・ロックバンドの原点とも評されるバンドも存在した。
1969年に結成され、ブルースロックを基調としながらも、差別用語を多用した歌詞や客とのケンカが絶えないライブパフォーマンスを行っていた村八分、1970年に結成され、政治的に過激なメッセージを歌い、ファーストアルバムが発売中止となった頭脳警察、1973年にデビュー、暴走族に絶大な人気を誇り、ライブでのトラブルが絶えなかった外道などがこれにあたる。
これらのバンドはその当時にはパンク・ロックという言葉が存在しておらず、特にカテゴリーとして括られる事は無かったため後にその存在がクローズ・アップされるまではパンク・ロックバンドとしては全く認知されていなかった。
その後、1970年代も後半に入ると、ロンドン、ニューヨークでのパンクムーブメントの勃興に伴い、日本においてもその影響を受けたロックバンドが次々に誕生する。
東京では、後に「東京ロッカーズ」と称される、70年代前半から紅蜥蜴として活動をしていたLIZARD、ニューヨークへ渡りコントーションズ、ティーンエイジ・ジーザス・アンド・ザ・ジャークスに参加しノー・ウェーブ・ムーブメントを直に体験したレックとチコヒゲらによるフリクション、後に日本のインディーズ・レーベルの始祖とも言える「ゴジラ・レコード」を発足させるヒゴヒロシによるミラーズ、ミスター・カイト、S-KEN。「東京ロッカーズ」より早く録音され、先にリリースされたオムニバス・アルバム「東京NEW WAVE’79」に収録された8 1/2、フールズの前身のSEX。後にタコを結成する山崎春美らのガセネタ。髪を逆立てたヘアースタイルや鋲ジャンといった、パンク・ロックのイメージを早くから体現していた名古屋のTHE STAR CLUBなどが登場。
そして関西でも、「関西NO WAVE」と称した、現在は作家として活動している町田町蔵(現・町田康)率いるINU、Phewらが在籍していたアーント・サリー、ハードコア・パンクの先駆けともいうべき高速な演奏スタイルのSS、JOJO広重が在籍したULTRA BIDE。福岡では、THE ROOSTERS、現在は役者として知られる陣内孝則がボーカルを務めていたザ・ロッカーズ、THE MODSなどが続々と登場した。
また、1979年に活動を開始、後にファンクに傾倒していったが初期には額をカミソリで切り流血、放尿、生きたままのニワトリやシマヘビを食いちぎるなどの過激なライブパフォーマンスを展開していたじゃがたらなども存在した。
ニューウェーブシーンにおいてもパンクの影響は強く、テクノポップバンドと目されたP-MODELやヒカシューなどのバンドはパンク色の強いスタイルをとっており、また他のパンクロックバンドとの交流もあった。
しかし、これらのバンドの出現は、まだまだムーブメントと呼べる規模には至らず、短期間で解散してしまうバンドも多かったため、一般には中々浸透す るには至らなかった。そして、当時の日本のパンクロックは、東京ロッカーズのバンドなどパンク以前にも音楽活動経験がある大人によるパンクロックが主力で あった。SSやTHE STAR CLUBなど10代のバンドもあったが、初期衝動による攻撃的なパンクロックがムーブメントとなっていくのは、1980年代以降の多くのハードコア・パン ク・バンドの出現を待つことになる。
そのような状況の中、1978年に結成され、ヤマハ主催のコンテスト「EAST WEST」にて優秀バンド賞を獲得したアナーキーが、1980年に ビクターよりデビューする。ファーストアルバムに収録されていた曲が、日本の皇室を揶揄する歌詞だったため、レコード会社が政治団体から抗議を受け一旦回 収となるなど話題を呼び、10万枚以上を売り上げ、日本に「パンク・ロック」という言葉、そしてパンクの反体制的なイメージを浸透させた。しかし一方で は、イギリスのザ・クラッシュの楽曲に日本語詞を乗せて歌うなど、物まねパンクと批判する意見もあった。
そして、1980年に結成され、観客に豚の臓物や汚物、爆竹などを投げ込み、全裸になってオナニーをするなど過激なパフォーマンスで脚光を浴びた遠藤ミチロウ率いるザ・スターリンが 登場。徐々にその常軌を逸したパフォーマンスは週刊誌などにも掲載され、世間一般にもパンクという言葉を浸透させていく事となった。しかし、ザ・スターリ ンの知名度が上がるに連れ、一般の若者達には「パンクとは汚物を撒き散らしたり、全裸になったりして歌う事だ」と大きな誤解を招く結果ともなってしまい、 他のパンク・ロックバンドからは異端の存在として白い目で見られていた部分もある。
アナーキーやザ・スターリンのようなメジャーのレコード会社から作品を発表するバンドもいる一方で、多くのパンクバンドは、この頃、全国で多数出現したインディーズ・レーベルから自主制作でソノシート、レコードを発表していた。しかし、インディーズのレコードの流通はまだ整備されておらず、一部のインディーズ専門のレコード店でのみ販売され、多くのファンはパンク雑誌「DOLL」や口コミなどで情報を得ていた。
インディーズ・シーンでは、イギリスのディスチャージ、GBHなどから影響を受けたハードコア・パンク・バンドが多数登場。「ハードコア四天王」と呼ばれたG.I.S.M.、GAUZE、THE COMES、THE EXECUTEや、LAUGHIN' NOSE、奇形児、MASTURBATION、MASAMI率いるGHOUL、あぶらだこなどが活躍し始めた。
また、パンクの中にゴシック・ロック的退廃を取り入れたポジティヴ・パンクもハードコアと連動する形で盛り上がり、AUTO-MOD、マダムエドワルダ、SADIE SADS、ALLERGYなども登場。
このように、1980年代前半に急激に増えたパンクバンドだが、the 原爆オナニーズ(名古屋)、コンチネンタル・キッズ(京都)、GAS(広島)、白(KURO)(福岡)、スワンキーズ(福岡)など、地元を拠点に活動するパンクバンドも多く、全国各地で独自のパンク・シーンが築かれていた。
1980年代半ばになると、雑誌「宝島」を中心にインディーズ・ブームが起こり、NHKで特別番組「インディーズの襲来」としてパンク・シーンが紹介されるほどの社会現象となった。その中でも、ハードコア・シーンから登場しポップセンスを取り込んだLAUGHIN' NOSE、THE WILLARD、ナゴムレコードの有頂天は「インディーズ御三家」と言われ高い人気を誇った。
前述のテクノポップやニューウェーブだけでなく、インディーズ・ブームで脚光を浴びたナゴムレコード、前述のポジティヴ・パンクとともにヴィジュアル系の源流の1つとも言えるトランスレコード、また非常階段、ハナタラシのようなノイズなど、当時のアンダーグラウンド、インディーズ・シーンで活躍するバンドの多くは、パンクロックの影響下にあり、実際パンクバンドとの対バンが多く、広義ではパンクと目される場合もあった。
そして、暴力的な嗜好に溢れていたパンクシーンにおいても、パンク・ロックの持つ攻撃的な音楽性を持ちながらも、ポップなメロディーを持ち合わせた楽曲を演奏するCOBRA、KENZI & THE TRIPS、THE POGO、ニューロティカ、JUN SKY WALKER(S)、The ピーズといったバンドも現れ始める。
特にその中でも、1987年にメジャーデビューしたTHE BLUE HEARTSは、 パンク・ロックを基調としながらも、青春的メッセージ性のあるシンプルな歌詞によって若者達の圧倒的支持を集め、それは一般においても知名度を獲得する事 となった。その後日本の音楽シーンにおいても空前のバンドブームが訪れ、様々なロックバンドが台頭するようになる。日本においては彼らの活動がスタイル若 しくはファッションとしての”パンク”を日本中に知らしめた事となった。
また、パンクとソウル・ミュージック、サイケデリック・ロックを融合させたニューエスト・モデル、メスカリン・ドライヴは、そのアティチュードの面において現在のソウル・フラワー・ユニオンに繋がる活動を展開。
一方、ハードコア・シーンにおいては、ナパーム・デスなど海外のバンドにも影響を与え、グラインドコアのジャンル形成にも大きく寄与したS.O.B、アメリカのハードコア・パンクから影響を受けたLip Cream、ヘヴィメタルとクロスオーバーし、G.I.S.M.とともにメタルコアの先駆けとなったGASTUNK、日本のスケートコアの先駆けとなったROSE ROSEなども現われ始めた。
この様に日本の音楽シーンに根付いたかに見えたパンク・ロックであったが、1990年代に入ると足元から徐々に精彩を失い始め、低迷期に陥る。これはXのブームをきっかけに急激に隆盛したヴィジュアル系の未曾有の大ブームの影響をまともに被ったことが大きな要因である。この時期、ヴィジュアル系バンドの熱烈なファンが押し寄せたライブハウスは、商業的な理由からヴィジュアル系優先の興行体制を取る様になった。その為、“メタル氷河期” と形容された程の壊滅的なシーン退潮に陥ったヘヴィメタルと同様、パンク・ロックのバンドが不利に扱われて演奏の場の確保にも難渋することさえ少なからず 起き、所属事務所やレコード会社からの商業的要求などでパンク・ロックの若手が音楽性やルックスについてヴィジュアル系路線へと転換を余儀なくされるケー スも少なからず起きた。その課程においてパンク・ロックがヴィジュアル系に影響を与える一方で、大衆の抱くパブリックイメージに混乱が起き、一時はXのメ ンバーの過激なパフォーマンスや共にヴィジュアル系の音楽性に影響を与えた存在であるヘヴィメタルなどともない交ぜにされてしまうことも多々見られた。い ずれにしても、ほとんどのバンドが総崩れというメタルほどではなかったかもしれないが、パンク・ロックのミュージシャンにとって苦難を耐え忍ぶ時代となっ た。
その様な1990年代にあって、ヘヴィメタルでは1996年に野村義男と久武頼正の発案により「アニメソングをメタルやったらアニメタル」というコンセプトで『アニメタル』が企画・制作され、これが企画盤とはいえメタルでは久々の30万枚のヒットになるという出来事が起きた。これを見たレコード会社は当時市場が低迷していた様々なジャンルで二番煎じとも言うべき企画盤を作ったが、パンクでもその例に違わず『アニパンク』が企画され、当時若手の井手功二プロデュースの下で発売され、アニパンクはその後もパーマネントバンドとして息の長い活動を続けている。この時期以降、パンク・ロックの分野でも様々なコンセプトに基づいた企画盤が制作される様になった。
1990年代後半になるとHi-STANDARDの登場により、メロディック・ハードコアやスカコアが日本のパンク・ロックシーンにおけるメインストリームになってゆく。また、メロコアではBRAHMAN、HUSKING BEEらが、スカコアではPOTSHOT、Kemuri、SNAIL RAMPなどが台頭しチャートの上位にも顔を出すようになる。日本のエモーショナル・ハードコアの先駆けとなったeastern youthやbloodthirsty butchersなどもこの頃台頭している。また、ストラグル・フォー・プライドなどのようなクラブカルチャーと連動するようなハードコア・パンクバンドも登場し始め、徐々にパンク・ロックも活力を取り戻して行った。
ヴィジュアル系の大ブームの終息と共にようやくシーン復活の兆しを見せ始めた1999年、沖縄からMONGOL800が登場した。彼らが翌2000年にリリースしたアルバム『MESSAGE』は、発売から7か月後のオリコンアルバムチャートで、インディーズながらついに1位となるロングセラーとなり、これはインディーズアーティストとして史上初のミリオンセラーの記録となった。
21世紀に入るとGOING STEADY、ガガガSP、The SANYONSらが登場し青春パンクブームが到来し、中高生を中心に支持を集めることとなった。